「 わん太さんの思い出 その三 」

( なつかしのウチへ )




 窓辺に寄り添う影 二つ
 ツバメとぼくと いつも暮らしてた
 パンを焼き 花を飾り 歌い
 物語のように暮らしてた

 バイバイ 小さな丸い目よ
 お前は高く 飛んでゆけ


 夜学は4年間。冷蔵庫の中でうまい具合に時間が過ぎてゆく。しかし四年目に入ってからは出なければならない授業も減ってきた。土曜もあいたし、普通の日も行かなくてよい日が何日かあった。
そうなると冷蔵庫も温度が上がってくるのであった。

 仕事も忙しくなった。というか、ちゃんとやる様になってきた。
というか取り巻く状況がやけに変ってきた。
 それで、さすがにわん太さんをかまって上げられなくなってきた。このままでは植木鉢の花が回復不可能な水切らしをする可能性があると思った。それでおやじさんに泣き付いたのであった。

 そして、わん太さんをおやじさんたちの所へ。
面倒を見てもらうことにした。またおやじさんたちの方でも丁度その頃には、そのような条件が出来てきた。
 幸い、その頃に元いた家がまた使えるようになったのだった。わん太さんは、あの懐かしい家へ帰っていった。
 そこで、かなりの時間をやはり一人きりで過ごすのだった。
朝夕におやじさんたちが顔を見に来てお世話する。
後の時間は一人きり。でもアパートの中とちがって、のびのびと屋外での暮らし。わん太さんが以前にいたあのぶどう棚の下である。
中学校の生徒たちの元気な声が聞こえる。

 それでわたしは、夜学四年目を何とか終えることができた。
夜学に四年間。まさしく冷蔵庫である。ヤングフォーエバーみたいに少し時間をスリップさせたみたいだ。

 そもそも、人が行けと言った訳でもない。普通は途中で億劫になってやめてしまう人もある。
 しかし、わたしはなんとかやり遂げた。一つはアパート暮らしの中で、入るための努力をしたからである。あの一年半の日々がなければ、きっと途中でやめていたかも知れない。冷蔵庫に入りたくなり、努力をした日々。そこにはいつもわん太さんが一緒にいてくれた。
 しかし、卒業したことが本当にいいことなのか。アホなことなのかよく分からない。四年間と言う時間は働き盛りの30代のわたしにとってとても貴重な時間だったと思うのである。それをある意味冷蔵庫に入り通した。人ぞれぞれの生き方ではある。とにかく終わった。

 夜学が4年間終わった。それは、一つの節目であった。
それでわたしも、六年間過ごしたアパートを後にして、懐かしい家に帰って来たのであった。

 わたしは1年ぶりに、またわん太さんと暮らし始めた。


 わたしは、わん太さんとまた散歩へ出かけた。しかし、一年あわないうちに、わん太さんは老け込んでいた。散歩で以前なら、団地の公園をぐるっと30分、中学校周囲のフェンスに沿った道も含めると1.5キロ以上あるだろうが、そんなの軽く歩けるはずだった。
 しかし、やけに疲れるのである。そのうち、ソーラさんとアスカさんと同じ程度、野球のグランドの周りを一周程度するのもやっとになった。

 最初、わん太さんがひねくれているのかっと思った。

「そんなとこでストライキ起こさないで歩いてよ。どうしたんだよ。」

 それでも、わん太さんはうずくまるのみである。
それでやっと、わん太さんは歩けないんだ。疲れてしまっているんだ。
とハタと思い当たった。
  
 「どうしたんだろう。あのわん太さんが……。こんなことで疲れる訳が……。」

 でもわん太さんは歩けないのである。仕方もなく、わん太さんをヨイショと抱きかかえて帰ることにした。わん太さんは神妙に抱かれていた。

 「参ったよ。やきが回ったなー。悪いねご主人。」

 わん太さんはそう言っていたかも知れない。
こんなことは、なんだかずいぶん前にもあった。アパートで暮らし始めた頃である。もう6年の時間が流れている。
 
 わん太さんの写真を撮った。それをある人に見せた。
アパートを出てすぐの頃。するとその人は、

 「何故だろう。その犬の写真。悲しそうな顔に見えるけど……。」

と言った。

 わたしはギクリとした。

 その写真を撮った頃は、わん太さんのそのような歩けなくなる状況がはじまる前で、わたしは気付かずに過ごしていた頃だ。
 それからしばらくして、わん太さんはたくさんは歩けなくなってきたのだ。
その写真を撮った頃から、きっと無理していたんだろうと思う。

 「悲しそうに見える」と言ったその人には、それからのことが、そのときに分かったのだと思う。わたしは気付きもしなかった。

 顔色に出るのだろうか?表情で分かるのだろうか?その人には直観的に分かったのかもしれない。あるいは気持ちで分かったのかもしれない。
 とにかく、わたしは気付いてあげることができなかった。きっと無理な散歩をさせていたのかも知れないと思うと、残念である。



                      



 それから、間もなくわん太さんはどんどん歩けなくなった。
それでも散歩へは行きたがる。でも疲れてしまって座り込む。
「短い距離で……」と思ってコースを選ぶのだが、それでも座り込んで動けなくなる。きっとつらかったんだろう。
 それでわたしは、わん太さんをヨイショ、コラシッと抱きかかえてうちマデ返るのである。中型犬のわん太さんはソーラさんとアスカさんの比ではなくて重かった。抱きかかえると大きくて抱き応えがあった。
わん太さんはわたしにおとなしく抱えられていた。
ちょっと甘えているようでもあり、かわいらしくもあった。

 よく道端で散歩の途中とかパタリと急に倒れる犬がある。
知り合いの話の中で、
「うちの飼っている犬がそうなった……」と言う話を聞く。
そう、これがフィラリア症状なのだ。

 からだの中で卵が孵り、成虫になると血管の中は混み合ってくる。
心臓にその成虫がたまると心臓はうまく機能しなくなり、血液の流れが突然滞り、そのため散歩の途中とかそれこそ突然パタリっと倒れたりする訳である。

 わん太さんにもそのような症状があらわれてきた。
散歩の途中にパタリとしゃがみ込んでしまう。しばらくじっとうずくまっていて、また歩き出す。
 どこかで聞いた犬の話では、歩いているとパタリと倒れ、ふっと立ち上がりまた平気で歩いていったということだった。

 わん太さんの場合は、きっと、もっと症状の進んだ状態だったのだろう。
バタリと倒れても意識を失わなかった。
 確かにおやじさんの話では、パタリと倒れても平気で歩き出す、そのような時期も短期間あったみたいだ。
戻って来たわたしとお散歩へ行く頃にはもっと症状が進んでいたのである。

 キャンと突然ないてしゃがみ込み、しばらく苦しそうにそのまま伏せていた。それでちゃんと意識はあるが、立とうとしてもヨロヨロとやった立ったがもう歩かなかった。

 ほんの少しの時間、外の空気を吸うために、となりの駐車場(当時はまだ空き地だったと思う)を歩いたが10メートルも歩かないうちにキャンとないてうずくまるようになった。その頃からもう歩かせないようにした。わん太さんは病床に着いたのである。
 抱いて草の中に連れて行って、しばらく草の匂いをかいだりしてまた抱いて部屋の中へ連れて戻った。

 いよいよ辛そうになってきた。ウチの中の風呂場の脱衣室がわん太さんの病室になった。外はやはり雨風があったからだと思う。
 実は、そのころ我が家全体が忙しく、わたしは、おやじさんたちと一緒にだんちの方で寝起きしていたので、1カ月ほどの間、わん太さんは、また少し前のように、このウチで夜は一人で過ごしたのである。
 このかなり深刻な状況の中で。丁度それに家族の慌しい事情が重なるのは世の常だろう。

 その慌しい日々の中で、わん太さんは弱っていった。
獣医さんにも見てもらって薬ももらった。
どうも手の付けようのない状態だったようだ。フィラリアの末期なのだろう。
あっという間に食べられなくなった。
 とりの肉をわん太さんために、おふくろさんが煮てあげた。
最初喜んで少し食べたらしいが、それも食べなくなってしまった。
その頃にはオシッコもあまり出なくなっていた。

 わん太さんは愛想のいい犬であったが、呼びかけても、もう勘弁ねー、という感じであまり愛想よく応えてもくれなくなった。ちょっとしっぽを動かすだけである。相当しんどかったのだろう。
 息づかいが荒い。風呂場の脱衣室に水やエサの器を持ち込んで、伏せをしてあごの下も床に着けていた。首を持ち上げるのももう疲れるのだろう。臥せというよりも、四本の足が開いてつぶれているような姿勢である。

 そんなある日、もうわん太さんともお別れが近いかもしれないと、わたしは思た。
そのとき寝泊りしていただんちの方のおやじさんたちの住居から、毎日のように、わん太さんの様子を見にきていた。
 わたしは、わん太さんがものすごく悪いと思っていたのだが……。
その日わたしは、マーケット前でバスを降りて途中で偶然石焼イモに出会ったので、買ってきた。
 わたしは、わん太さんに挨拶をして、脱衣室のすぐ近くにある食堂で、その石焼イモを食べていた。
わん太さんのために煮た鶏肉も食べないのである。
だから、その焼いもをわん太さんへおすそ分けしなければいけないとは全く思わなかった。
 台所で焼いもを半分に割ったりしながらひとり食べていた。鶏肉すら食べないのである。こんな焼いもなんて……。

 すると、伏せていたはずのわん太さんがヨロヨロと立ち上がってフラフラっとわたしのいるテーブルのところへ歩み寄ってきた。
 そしてしきりに「お手」とか、「おかわり」とかするのである。
それに鼻をこすりつけて「お鼻」のようなこともする。
 わたしは、まさかサツマイモが食べたいんだろうかっと、少しあげた。

 すると、わん太さんはわたしの手から奪い取るようにしてムシャムシャっと食べた。
 
 「あれ、なーんだ。わん太食べれるようになったんだ。」

 それで一塊の焼いもをそれこそムシャムシャっと食べてしまった。そして、もういらないという風に、またヨロヨロとわん太さん病室である脱衣室へ戻っていって水を飲んでまた伏せた。

 「あーよかった。まだ、大丈夫だな。」

とわたしは思ってしまった。
しかし、実はそれがわん太さんのわたしへのお別れの挨拶だったのである。

 それが木曜日のことだった。
それことをおやじさんたちへ話すと、

 「あれっ、そうかい。でもわたしたちが何をあげてももう食べないし、水も飲まないんだけどねー」

 と言っていた。

 「えっ、でもやきいもとかムシャムシャ食べたよ……。」


 その翌日は金曜日。それまでわたしは、毎日のようにわん太さんの所に通いづめていた。木曜日に寄ったときわん太さんがやきいもをよく食べたので、少しほっとし、この日は仕事の帰りも遅くて「まあいいや」と思って、わん太さんのところへはよらなかった。

 そして、土曜日の朝、仕事へ出かけた。
昼頃、おやじさんから職場に電話があり、わん太さんが亡くなったと連絡を受けた。



                      



 わん太さんがわたしの食べているやきいもをムシャムシャと食べたのは本当に実はそれが最後の食べ物となったのだろう。
そして、それはわん太さんのわたしへのお別れの挨拶だったのだ。

 そう、わん太さんは、本当にいつもと変らないようにわたしの手からやきいもを食べた。ふと見過ごせば、それは全くありふれたいつもの日常の場面である。

 「なんだ、食べたいんだー。仕方ないなー。どうしようかなやきいも食べちゃおうかなー。でも気の毒だし、少しやるよ。」

ほんと、食べてしまわなくて良かった(^^;)そんな感じだった。

 それに、わん太さんは本当に人なつっこく、楽しそうに「お手」をしたり「お鼻」をしたり。立ったら臥せするのが大変だから、立ったまんまでイスのところで「お鼻」をしたりした。
わん太さんからすれば、それしかできないし、それが挨拶でありお別れの言葉だったのである。

 そして本当にいつもと変らぬ犬らしい食欲でわたしからかすめとったやきいもをムシャムシャっとガツガツ食べた。本当にうまそうに食べた。

 そのころも、今とあいも変らず、さつまいもを蒸かしてよく食べていたのである。わん太さんは大好きであった。そしてそれはソーラさんとアスカさんに受け継がれるのであった。買ってきたやきいもはさらに旨かったかも知れない。
それに安心して、その翌日はお見舞いにいけなかったのが心残りとなった。

 やきいもを食べた後、タイマーを使ってわたしはわん太さんとふたり、記念の写真を写した。ふと気付いて写したのである。
わたしはわん太さんのからだに軽く手を触れておいて優しくなでている。
わん太さんもうれしそうだった。
 わん太さんと会うのはこれが最後となったのである。


 土曜日の朝、10月21日、思わずおやじさんからわん太さんが亡くなったとの電話が入ったのである。
 これから、埋葬してあげるとのこと。
その日、他に用事があったが、まずはわん太さんとお別れをするために職場からウチへ戻って来た。

 テスのときはお別れが出来なかった。ジョニーさんはダンボールの箱に横たえられた姿を学校から急いで戻ってきて、埋葬係の人(多分業者か保健所)が運び出してゆくときにぎりぎり間に合った。ちらりとお別れをすることが出来た。

 わん太さんのお別れに急いで駆けつけた。

わん太さんはもう臥せというよりもぺたりと足を開いてつぶれるような姿勢だった。からだもなんだかぼわりと大きくなっていた。
そして目を閉じていた。

 わん太さんは死んでしまったのである。

「きちんとこの目で見ておいてあげないといけない。」

とわたしは思った。。


 「何時ころだったの」

そこにいたおやじさんが応える。

 「朝、寄ってみたら、もう死んでいたんだ。脱衣室から這い出して廊下に出てきていて、そこで死んでいたんだ。そして廊下にウンチが少ししてあった。きっとウンチはやっぱり寝てるところではしたくなかったんだろう。まだ、からだが温かかったから、まだ間がないことだったんだろう。」

 「結局、だれもウチにいない時間に一人で死んじゃったんだね。」

 そうわん太さんは誰もいない時間帯に一人で死んでいった。ウンチをしようと必死で廊下に出て、静かにという感じではないけれど。
 不思議にたいていの犬たちは、このように一人ぼっちのところで人知れず死んでゆく。
 来るときはお母さんと一緒。一人さまよい、誰に甘えることもなく、そして一人で死んでゆく。
人の人生もまた、このようなものかも知れないっと思う。



                      



 「わん太、よく頑張ったなー。よく頑張った。」
おやじさんは言うのである。

 「12年生きたんだね。いろいろ、あちこち住む所も変ってしまってかわいそうだったなー。」

 「ほんとによくやったなー。頑張ったなー」

 おやじさんはそのようにわん太さんに声をかけてあげていた。

 しかし、一体何を頑張ったというのだろう。
犬である。ただ生きてきただけだ。わたしのようなご主人に振り回されて。
一体何に向かってどう努力したというのだろう。一体犬の人生に何の意味があるだろう。ただ生き、そして死んでいっただけじゃないだろうか。
 そして、自分たち人間も、所詮はこのわん太さんと同じなのではないだろうか。何に向かってどう頑張るというんだろう。ただただ生きている。何の意味があるんだろう。
 わたしには、わん太さんとお別れする瞬間、そのようなことを考えていた。


 「そんなことはないさ。こんなときは、よく頑張と褒めてやるのがいいんだよ」

とおやじさんは言うのである。

 人間の場合には、仏様の教えや、キリスト教の教えの中で、その人の生きた意味を確認するのだろう。わん太さんは、おやじさんのこの言葉でその生きた意味付けがなされたのである。

 
 わん太さんはもういない。わん太さんは慣れ親しんだこのウチの庭の片隅に今も眠っている。

 今こうしてわん太さんの思い出を振り返るとき、わん太さんの姿が浮ぶ。
わん太さんはみんなにやさしくあった。
 さっそうと胸を張ってお散歩をした。冷蔵庫時代のアパートで暮らしたあの時間を、確かにわたしとわん太さんは一緒に生きたのである。あの頃を忘れてはいけないと思う。
 
 思い出の中で、黙々歩いてきたわたしたちは少し汗ばんでいる。
五月の草の香りのする風に吹かれ、わん太さんとわたしは広々とした川原に立っている。

 今、心の中でわん太さんに花束をささげたい。(タンポポがいいなー)


                   (2003.4.24)


( このページに流れている曲はバッハの「無伴奏フルートソナタ」です。Holdonさんの作成されたMIDIの演奏です。昔フルートをやっていることがあってこの曲は二十歳くらいの頃からずっと好きでした。使わせていただけることになったのが昨年の11月でずいぶん遅れてしまい申し訳ありませんでした。 )


 


( 2003年4月25日アップロード )